日記みたいな

日記とか娯楽感想とか

娯楽鑑賞は宗教体験である

 面白い娯楽作品を鑑賞すると、快楽にも似た圧倒的な幸福感に長時間浸ることができる。逆に言えば、その条件を満たす作品が面白いのである。では、その幸福感に支配されているとき、僕はどんな心情を抱いているのだろうか。考えてみた。

 おそらく、そのとき抱く感情は作品に対する負の感情を完全に捨てた、純粋無垢な賛美なのではないかと思う。「賛美」と言うと控えめに聞こえるかもしれないが、"負の感情を完全に捨てる"という点を考えると、それは理性を捨てた一種の信仰だと言える。人間が生活を営む上で必要な理性を保たなければ、作品に冷静な判断を行うことができない。しかし、娯楽鑑賞を最も【楽しむ】ためには、理性を保つ必要があるのだろうか。いや、その必要はない。

 作品を鑑賞する際に、理性を保つ必要はない。理性を捨て、作品に対する純粋な賛辞のみを抱き、最初から最後まで信者になったつもりで作品を鑑賞すればいい。そう考えると、僕は娯楽鑑賞をある種の洗礼として捉えているのかもしれない。

 信じられることが数少ない世の中に生きる僕達ではあるが、自分の感性だけは確実に信仰して、あたかも洗礼のように娯楽鑑賞を行い、精神的支柱を得る。こういうスタイルがあってもいいのではないだろうか。

雑感

 僕の日常系アニメの定義は「負の感情が一切存在しない世界を描写したアニメ」である。この定義に合致する日常系アニメを鑑賞する時、特定の女の子に対して視線を注ぐ、というスタイルではなくキャラクター全員を見守る、という姿勢を取ることが多い。

 しかし、日常系アニメはあんまり好きじゃない。なぜなら、負の感情が欠落することは魅力が減少することに直結する作品が多いからだ。負の感情や作品全体の不安定さがあるからこそハッピーエンドが劇的に映える。僕はハッピーエンド至上主義者だけど、最初から最後までハッピーな世界はあんまり面白くない。どうしてそう思うのだろうか。それはたぶん、観察者という視点で娯楽を鑑賞してしまう癖が抜けないからであろう。

 先に言ったように、僕は負の感情を克明に描写した作品が好きだ。もっと言えば、登場人物が抱える負の感情を観察者の視点で観るのが好きだ。しかし、作中とはいえども強烈な負の感情を長時間直視させられるのはさすがに辛い。僕はどんなジャンルが好きなのだろう。そう考えた時に「『負の感情』に苛まれていると思い込んでいるが、観察者(僕)の視点で見ると取るに足らない思い」を抱くキャラクターが活躍する作品を好きになるのかもしれないという結論に至った。そして、これに合致するジャンルが青春モノや少女漫画だと思う。

 言うまでもないが、青春モノに登場する主人公は思春期である。思春期の男は大抵バカだから(万年思春期の僕が言えることじゃないけど)自意識過剰で鬱屈している。そんな主人公がしょーもない出来事(例えば女の子を好きになるとか)で救われたり、どうにもならないことについて悩んでいるのを見てワクワクするのが好きなのだ。

 また、少女漫画に登場する主人公は女の子である。恋に恋する女の子はすごく可愛い。大好きだ。恋愛感情は絶対値が非常に大きい正の感情だと捉えている。だから、恋にまつわる主人公の悩みは、負の感情ではあるが絶対値はあまりに小さい。主人公が正の感情に基いて動くのがハッキリと見て取れるから少女漫画を好きになるのであろう。

 結局のところ僕は観察者の視点で娯楽鑑賞する癖があるから青春モノや少女漫画を好きになるとわかった。作中にダイブして当事者の視点で鑑賞することができれば視野も広がるのであろうがなかなか難しい。まぁ難しいと嘆いても始まらないから、まだ触れていない面白そうな作品を鑑賞することに努めたい。