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SNSに依存する若者を救う

 mixiFacebookTwitterSkype、LINE…

これらのSNSに依存する若者は非常に多い。どうして彼/彼女らはSNSに執着し、「繋がり」を求めずにはいられなくなったのであろうか。次の段落では彼/彼女らの性質を主観を交えて挙げていく。

 SNSに依存する若者に共通する第1の性質として、趣味が少ない、あるいは無趣味であるということが挙げられる。どうしてか。彼/彼女らは就職活動を第1に考えて生活を送る現実主義者である。自己満足に浸る趣味など無価値であり、生産性を持つ趣味、あるいは消費的であってもコミュニケーション等、生産活動に繋がる趣味に価値を見出すからだ。僕もたまにSkype掲示板を利用するのだが、メインユーザーの趣味と言えばアニメ、ボカロ、ニコ生、歌い手などである。どうしてSkypeニコニコ動画の文化が繋がるのか少し不思議に思ったのだが、親近感で趣味を選択すると考えるとストンと腑に落ちた。親近感…それはコミュニケーションにおいて大切な要素である。どうしてコミュニケーションを渇望するのか。それはSNSに依存しているからだ、とトートロジーに陥らないために、彼/彼女らに共通する第2の性質を理由として挙げる。

 彼/彼女らには一つの共通する第2の性質…それは自己否定感が強いということだ。我々は自己否定感を得るために何をなすのか。学問に精を出す、趣味を楽しむ…様々な方法が存在するが、彼/彼女らはコミュニティに加入することで仲間から承認を得るという選択肢を最優先するのだ。それでは、どうして彼/彼女らは 自己肯定感を喪失したのか。

 その理由は社会に対する不信であろう。若者は生存するためにはお金を稼がなければならない。そのために辿るであろう一般的なルートは就職活動という通過儀礼を乗り越え、企業から内定を貰うことである。企業から採用されるとは、すなわち人事部の社員から承認を得ることである。しかし、現代は就職氷河期であり、新卒といえども内定を得るのは非常に難しく、採用基準も企業によって異なり、甚だ曖昧である。そのため、企業から採用される人材たるべく若者は不断の成長を強いられる。そう、成長の原動力は企業から採用されたいという利他性に基づいた欲望である。利他的成長思考がSNSに依存する学生に繋がるのだ。

 しかし、SNSに依存すると、当然ではあるが絶えず自分とは異なる他者の存在を直視することになる。コミュニティに加入することで自己肯定感が回復するのであればそれで良いが、他者との交流を経て自分の能力不足を実感するも改善に踏み込めず、元々持っていたコンプレックスが増幅してしまう人もいる。こうなると目も当てられない。そのような人を救済する方法は存在するのだろうか。

 第1の解決手段としては所属コミュニティを変える、複数のコミュニティに所属するという手段が挙げられる。TwitterSkype等は複数のアカウントを所有することが容易であるため、アカウント毎に異なるコミュニティに参加することで仲間から承認されれば自己肯定感を得ることができるであろう。しかし、複数のコミュニティに参加するだけではSNSに依存する問題の解決にはならない。まぁ僕はSNSに依存することで彼/彼女らが自己肯定感を得ることができるのであればそれで良いとは思うのだが…。何もSNSに限る必要はない。大学生であれば学部、サークル、バイト等…様々なコミュニティが存在する。少しの勇気があれば、これらのコミュニティに加入することができる。まぁそもそも、生活範囲で複数のコミュニティに加入している人はそもそもSNSに依存しない思うが…。それではSNSに依存しているのにもかかわらず自己肯定感を得ることができない人々を救うにはどうすればいいのだろうか。

 第2の解決手段として自己完結する形で自己肯定感を得ることが挙げられる。インターネットが普及し、SNSを全く利用しないで生きるのは難しくなった現代であるからこそ、自己完結する形で自己肯定感を得る、すなわち自己満足するのが大切なのだ。自己満足するためには何するべきか。

 1つの手段としては恋愛が挙げられる。恋愛、と聞くと自己完結してないだろうと指摘されるかもしれないが勘違いしないでほしい。カップルとは拡張された広義の自己である。僕らはどうして男女、性差が存在するのか。互いを補うことで対称性を取り戻すためである。遺伝子に刻まれた僕らの物語は性差という名の欠損を補完し、完全な形となることで集結する。デート、セックスを経て二人の男女が精神的にも肉体的にもひとつになる幸福は何よりも代えがたいであろう。幸い、現代は先に述べた通りSNSで溢れている。恋愛という目的に向かって矢のように動けば成就することは容易であろう。そして、恋愛で得られる(広義の)自己満足感は非常に大きい。SNSに依存することもなくなるであろう。

 第2の手段としては趣味が挙げられる。自己満足する趣味とは、自分の感性、感情、主観を絶対視し、嗜好に最も合致する至高の作品を作る/出会うべく、生産、消費行為を繰り返すということだ。その行為に他者が介在する余地はなく、終りはない。しかし、感性とは非常に曖昧なものであり、自分でも語ることは非常に難しい。では、感性を具体化するために何をすれば良いのか。生産的な趣味、例えば文章執筆であれば名作を、作曲であれば名盤を聴くことである。世の中にはありとあらゆる傑作に溢れている。それらを多少なりとも吸収することで段々と自分の中で確固たる感性が形成されるのだ。そうすると、自分の中に沸々と湧き起こる尖った原石、それを表現したいという欲求に取り憑かれ、創作に走るのである。そうでなくとも、名作名盤を摂取する過程で感性の形成を自覚し、感性と合致する作品を探求する志向にシフトする可能性もあろう。それはそれでいい。このように、自己満足に浸る行為はどっぷりハマれば幸せであること間違いないが、その道は果てしなく長い。それ以外に自己完結する形で自己肯定感を得る手段はないのか。

 そこで第3の手段、宗教が挙げられる。宗教、と聞くとアレルギーを起こすかもしれないが勘違いしないでほしい。宗教の意義は生の肯定と死の許容である。宗教を信仰することで自分を聖書、経典に書かれた物語の登場人物とみなす。宗教における物語の最後は必ず救済が訪れる。いや、救済されなければそれは宗教ではない。このようにして、宗教を信仰し、聖書や経典に書かれた物語を媒介して自己完結する形で自己肯定感を得るのだ。また、物語を信仰するという視点で考えるのならば、わざわざ宗教に信仰する必要はない。小説、映画、漫画、ゲーム…物語で構成されている娯楽は非常に多い。自分の感性と合致した作品を追求し、至高の物語を信仰することで自己肯定感を得ることができるのだ。kanonAIRCLANNAD等、key作品が流行した原因はこのような思想背景があるからだと推察する。また、何も自己肯定感を得るためだけならば、宗教に加入すると言っても前述のように物語を絶対視する必要はない。宗教に入信することでコミュニティに参加でき、仲間からの承認を得ることもできるのだ。また、コミュニティには異性もいるであろう。したがって、教義に背かなければ恋愛することも可能である。このように、恋愛、趣味、宗教と自己完結する形で自己肯定感を得る3つの方法が全て繋がった。

 SNSに依存する学生を救う、という題名から少し逸れてしまったが、僕は自己肯定感が喪失した人を救う手段を列挙し、かつ整合性が取れるように纏めたつもりである。この記事を読んだ人に何かしら思考の種を植え付けることができたならば著者冥利に尽きる。