日記みたいな

日記とか娯楽感想とか

2018年の目標(遅い)

新年あけましておめでとうございます(遅すぎ)。

 

2018年の目標を列挙します。

 

01. 恋人をつくる

02. Atcoderで水色コーダーになる

03. 基本情報技術者試験を取る

04. 統計検定2級を取る(リベンジ)

05. LPICレベル1を取る

06. 応用情報技術者試験を取る(できれば)

07. 月に1冊技術書を読む

08. ブログやqiitaを週1ペースで雑に更新する

09. 仕事・資格が落ち着いたら普通二輪免許を取る

10. 駅寝する

11. 旧友に会ったりする

12. 某賞に応募する

 

とりあえず思いつくままに列挙しました。

本年もよろしくお願いいたします。

 

2017年に観た映画まとめ

ブログ書くか〜って気になったので更新します。

 

今年は例年よりも映画を観たので、簡単にまとめます。

 

ラ・ラ・ランド: 設定、シナリオともに好みで大満足。2017年2位。

ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜: ファンタジックな世界観だけど時事ネタを取り入れていてチグハグ感があった。個人的にはあんまりピンと来なかった。

夜は短し歩けよ乙女: 森見テイスト全開という印象。それが持ち味だし良いと思うんですけど。

美女と野獣: エマ・ワトソンが可愛いということ以外特に印象に残らなかった。

KING OF PRISM -PRIDE the HERO-: キンプリ続編。相変わらずバカ笑いして楽しめたのでよかった。2017年3位。

メアリと魔女の花: 心身ともに不調の時期に観に行ったので腰が痛いという記憶しか残っていない。

劇場版ポケットモンスター キミにきめた!: アラサーホイホイ。ポケモンバトルはいつも通り。久しぶりにポケモン映画を観た(ルギア爆誕以来?)けど満足。

打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?: 2017年ベストかもしれない。及川なずなと一夏のアバンチュール。

ガールズ&パンツァー 最終章 第1話: ガルパンテイストは相変わらず。続きが楽しみ。

25歳素人童貞になりました(飛田新地体験レポート)

4月29日、この日は僕のbirthday eveであり、そして今日、4月30日は25歳の誕生日である。実は、去年も誕生日に童貞を卒業しようと考えたのだが、主に金銭的な事情から計画を断念してしまった。いや、金銭的な問題は些細なことだ。結局は、僕にほんのちょっとした勇気が足りなかったのだ。今年は金銭の目処がつき、説明会を予約することで大阪に行く理由を作ることもできた。童貞を卒業する舞台が整ったのである。

 

18時過ぎ、梅田で行われた説明会を終えた後、地下鉄御堂筋線に乗り、天王寺駅に着く。天王寺駅からは携帯で地図を見ながら移動したので、やや時間が掛かったものの、道に迷うことなく19時過ぎには飛田新地へ辿り着くことができた。

 

そして、青春通りを廻りながら嬢を吟味した。ここで生来の方向音痴っぷりを遺憾なく発揮し、同じ通りを2,3回は巡回してしまった。途中、客引きのおばちゃんから「はよ決めぇや!マスクのにーちゃん」と大声で罵倒されることもあり、非常にイライラした。結局、はじめに見た時に可愛いと思った、大人しめのおっとりした子に童貞を捧げることにした。優柔不断が災いして嬢を決めるのに20分も掛けてしまった。

 

思い返してみると、これは明らかに失敗だったと思う。好みの子を見かけたら即断した方が確実に良い。時間を掛けると体力を消耗してしまい、性欲も減退してしまう。また、今回の企画で失敗したことがもう一つある。それは飛田新地に行く前に説明会に参加したことだ。説明会に参加するという「飛田新地へ行くための動機」を作ったのは好判断だと自分でも思うが、スーツを着て説明会に参加し、2時間もの間、集中して人事部のおっさんを聞くのはなかなかに疲れる。正直、飛田新地に着いた時はあんまり性欲がなかった。嬢を吟味している時、どの子を見ても「可愛いなぁ」と思うに留まってしまい、視覚と性欲が直結しない。嬢を選んで、いざプレイに突入する段階に至っても、射精できるかどうか心配だった。

 

階段を上がって個室に入り、改めて嬢と対面する。まじまじと見ると嬢の肌が少し汚く、それを隠すように濃いメイクをしていた。端的に言って、メイクが合っていないように感じた。照明の効果は偉大だと思いつつも、嬢選びを間違えたんじゃないかとさえ思った。

 

20分16000円のコースを選択し、料金を嬢に払う。僕は嬢が階段を降り、会計をしている間にスーツを脱ぎ、覚悟を決める。会計を済ませた嬢が再び個室に来て、いよいよプレイ開始。全裸になり布団に座って嬢と対面し、モノにゴムをつける。裸を彼女に見せつけていることになるけれど、それは相手も同じ状況だから、そこまで羞恥心は抱かなかった。まぁ、体毛が濃いなんて些細なコンプレックスを気にするような場合ではない。おっぱいパブの時に女性の体を触ったことはあるので、さほど遠慮なく女体に触れられる。でも、あんまり興奮しない。童貞が興奮するという噂のフェラをしてもらったんだけど、なんだかくすぐったいだけで、全然勃つ気配がない。乳首を舐められたりもしたんだけど、そこまで興奮しなかった。僕もキスをしたりおっぱいを揉んだり、下の部分を触ったりした。この時「おっぱい吸ってもいい?」とか許可を求めてしまうのは、非常に格好悪いとは思うんだけど、そうすることでしか動けないから仕方がない。まぁ通い詰めるうちに情に対して積極的になっていくのだろう。そんなことをしていても、やっぱりそこまでムラムラしなかった。彼女が店の前で見た時よりも可愛くなかったという事実が、かなり性欲の減退に寄与していると思う。

 

それでも嬢のサービスは一流で、ゴム越しの素股や体を密着させての正常位をしてもらううちに、僕のモノは次第に固くなっていった。騎乗位や立ちバックも考えたけど、初回でトリッキーな体位をしてもあんまり興奮しないのは目に見えている。僕はちょっと足が痛くなるのを我慢しつつも、密着しての正常位を執拗に繰り返した。この体位の長所は女性の顔を直視することなく体に触れられるという点だ。行為の最中、彼女は必死に喘いでいたけれど、確実に演技だったと思う。「やっぱり結構演技することが多いんですか?」と聞きたかったけれど、さすがに雰囲気を台無しにするような失言はしたくない。彼女は僕を興奮させようと頑張っているのだ。僕もその期待に応えたい。1対1でのセックスというシチュエーションを共有したい。シチュエーション。今思えばそれが僕にとって最も大切な興奮材料だったのかもしれない。僕は3次元もので抜くことが多いのだが、野外露出やマッサージなんかのシチュエーション系の動画を用いる場合が多く、普通のセックスシーンは滅多に見ない。だから、プレイ始めはイマイチ興奮できなかったのだろう。シチュエーションに没頭できなかったのだ。しかし、時間を掛けて嬢とまぐわうことで、次第に凝り固まった脳が可塑していった。セックスに没頭できるような脳に変化していったのだ。

 

喘ぐ彼女と、無言で腰を振りピストン運動をする俺。彼女は明らかに興奮していない。でも、俺を興奮させようとして必死に演技している。ならば、俺は俺自身が興奮すべく最大限の動きをするしかない(と言いつつ実際は腰を動かすことしかできなかった)。そうすることで、仮初にも「愛のあるセックス」というシチュエーションを共有することができる。あの時、確かに俺と彼女の目的が一致したのだ。俺と彼女は物理的にも精神的にも交わっていないし、これからの人生で交わることもない。けれども、交わっていないからこそ、互いが幸福で居られ、俺は理性的に興奮することができたのだ。最終的には「あっ…イク」「…んっ…あぁっ!」なんて呻き声を上げながら射精した。

 

結構出てるね(笑)、なんて言われながらも嬢の為すがままに後処理をしてもらった。まだ時間が少し余っているらしく、服を着てから彼女と雑談した。このプレイは時間が長く感じちゃっただとか、就活の話とかをしているうちに時間になり、僕は虚脱感に溢れながらも店を後にした。オナニーの数十倍は疲れた。

 

教訓

①嬢は早めに選べ

②体力を温存しろ

③性欲のモチベーションを上げておけ

 

次回は内定が決まった後に、ギャル系の子とセックスします。

 

 

 

 

 

 

SNSに依存する若者を救う

 mixiFacebookTwitterSkype、LINE…

これらのSNSに依存する若者は非常に多い。どうして彼/彼女らはSNSに執着し、「繋がり」を求めずにはいられなくなったのであろうか。次の段落では彼/彼女らの性質を主観を交えて挙げていく。

 SNSに依存する若者に共通する第1の性質として、趣味が少ない、あるいは無趣味であるということが挙げられる。どうしてか。彼/彼女らは就職活動を第1に考えて生活を送る現実主義者である。自己満足に浸る趣味など無価値であり、生産性を持つ趣味、あるいは消費的であってもコミュニケーション等、生産活動に繋がる趣味に価値を見出すからだ。僕もたまにSkype掲示板を利用するのだが、メインユーザーの趣味と言えばアニメ、ボカロ、ニコ生、歌い手などである。どうしてSkypeニコニコ動画の文化が繋がるのか少し不思議に思ったのだが、親近感で趣味を選択すると考えるとストンと腑に落ちた。親近感…それはコミュニケーションにおいて大切な要素である。どうしてコミュニケーションを渇望するのか。それはSNSに依存しているからだ、とトートロジーに陥らないために、彼/彼女らに共通する第2の性質を理由として挙げる。

 彼/彼女らには一つの共通する第2の性質…それは自己否定感が強いということだ。我々は自己否定感を得るために何をなすのか。学問に精を出す、趣味を楽しむ…様々な方法が存在するが、彼/彼女らはコミュニティに加入することで仲間から承認を得るという選択肢を最優先するのだ。それでは、どうして彼/彼女らは 自己肯定感を喪失したのか。

 その理由は社会に対する不信であろう。若者は生存するためにはお金を稼がなければならない。そのために辿るであろう一般的なルートは就職活動という通過儀礼を乗り越え、企業から内定を貰うことである。企業から採用されるとは、すなわち人事部の社員から承認を得ることである。しかし、現代は就職氷河期であり、新卒といえども内定を得るのは非常に難しく、採用基準も企業によって異なり、甚だ曖昧である。そのため、企業から採用される人材たるべく若者は不断の成長を強いられる。そう、成長の原動力は企業から採用されたいという利他性に基づいた欲望である。利他的成長思考がSNSに依存する学生に繋がるのだ。

 しかし、SNSに依存すると、当然ではあるが絶えず自分とは異なる他者の存在を直視することになる。コミュニティに加入することで自己肯定感が回復するのであればそれで良いが、他者との交流を経て自分の能力不足を実感するも改善に踏み込めず、元々持っていたコンプレックスが増幅してしまう人もいる。こうなると目も当てられない。そのような人を救済する方法は存在するのだろうか。

 第1の解決手段としては所属コミュニティを変える、複数のコミュニティに所属するという手段が挙げられる。TwitterSkype等は複数のアカウントを所有することが容易であるため、アカウント毎に異なるコミュニティに参加することで仲間から承認されれば自己肯定感を得ることができるであろう。しかし、複数のコミュニティに参加するだけではSNSに依存する問題の解決にはならない。まぁ僕はSNSに依存することで彼/彼女らが自己肯定感を得ることができるのであればそれで良いとは思うのだが…。何もSNSに限る必要はない。大学生であれば学部、サークル、バイト等…様々なコミュニティが存在する。少しの勇気があれば、これらのコミュニティに加入することができる。まぁそもそも、生活範囲で複数のコミュニティに加入している人はそもそもSNSに依存しない思うが…。それではSNSに依存しているのにもかかわらず自己肯定感を得ることができない人々を救うにはどうすればいいのだろうか。

 第2の解決手段として自己完結する形で自己肯定感を得ることが挙げられる。インターネットが普及し、SNSを全く利用しないで生きるのは難しくなった現代であるからこそ、自己完結する形で自己肯定感を得る、すなわち自己満足するのが大切なのだ。自己満足するためには何するべきか。

 1つの手段としては恋愛が挙げられる。恋愛、と聞くと自己完結してないだろうと指摘されるかもしれないが勘違いしないでほしい。カップルとは拡張された広義の自己である。僕らはどうして男女、性差が存在するのか。互いを補うことで対称性を取り戻すためである。遺伝子に刻まれた僕らの物語は性差という名の欠損を補完し、完全な形となることで集結する。デート、セックスを経て二人の男女が精神的にも肉体的にもひとつになる幸福は何よりも代えがたいであろう。幸い、現代は先に述べた通りSNSで溢れている。恋愛という目的に向かって矢のように動けば成就することは容易であろう。そして、恋愛で得られる(広義の)自己満足感は非常に大きい。SNSに依存することもなくなるであろう。

 第2の手段としては趣味が挙げられる。自己満足する趣味とは、自分の感性、感情、主観を絶対視し、嗜好に最も合致する至高の作品を作る/出会うべく、生産、消費行為を繰り返すということだ。その行為に他者が介在する余地はなく、終りはない。しかし、感性とは非常に曖昧なものであり、自分でも語ることは非常に難しい。では、感性を具体化するために何をすれば良いのか。生産的な趣味、例えば文章執筆であれば名作を、作曲であれば名盤を聴くことである。世の中にはありとあらゆる傑作に溢れている。それらを多少なりとも吸収することで段々と自分の中で確固たる感性が形成されるのだ。そうすると、自分の中に沸々と湧き起こる尖った原石、それを表現したいという欲求に取り憑かれ、創作に走るのである。そうでなくとも、名作名盤を摂取する過程で感性の形成を自覚し、感性と合致する作品を探求する志向にシフトする可能性もあろう。それはそれでいい。このように、自己満足に浸る行為はどっぷりハマれば幸せであること間違いないが、その道は果てしなく長い。それ以外に自己完結する形で自己肯定感を得る手段はないのか。

 そこで第3の手段、宗教が挙げられる。宗教、と聞くとアレルギーを起こすかもしれないが勘違いしないでほしい。宗教の意義は生の肯定と死の許容である。宗教を信仰することで自分を聖書、経典に書かれた物語の登場人物とみなす。宗教における物語の最後は必ず救済が訪れる。いや、救済されなければそれは宗教ではない。このようにして、宗教を信仰し、聖書や経典に書かれた物語を媒介して自己完結する形で自己肯定感を得るのだ。また、物語を信仰するという視点で考えるのならば、わざわざ宗教に信仰する必要はない。小説、映画、漫画、ゲーム…物語で構成されている娯楽は非常に多い。自分の感性と合致した作品を追求し、至高の物語を信仰することで自己肯定感を得ることができるのだ。kanonAIRCLANNAD等、key作品が流行した原因はこのような思想背景があるからだと推察する。また、何も自己肯定感を得るためだけならば、宗教に加入すると言っても前述のように物語を絶対視する必要はない。宗教に入信することでコミュニティに参加でき、仲間からの承認を得ることもできるのだ。また、コミュニティには異性もいるであろう。したがって、教義に背かなければ恋愛することも可能である。このように、恋愛、趣味、宗教と自己完結する形で自己肯定感を得る3つの方法が全て繋がった。

 SNSに依存する学生を救う、という題名から少し逸れてしまったが、僕は自己肯定感が喪失した人を救う手段を列挙し、かつ整合性が取れるように纏めたつもりである。この記事を読んだ人に何かしら思考の種を植え付けることができたならば著者冥利に尽きる。

 

アニメ『Noir』感想(ネタバレあり)

 作品のテーマは所属、所在。

 

・序盤 ~Noirの結成、ミレイユと霧香の違い~

 ミレイユ・ブーケ(以下ミレイユ)は夕叢 霧香(以下、霧香)と邂逅し、暗殺ユニットNoirを結成する。ミレイユは家族をソルダなる組織に殺されており、暗殺の依頼を遂行する傍らソルダに関する情報を集め、真実を追求していく。彼女は不幸の境遇を抱えており、その行動理念は両親を殺した組織への復讐と、一貫している。対して霧香は自分に関する記憶を失くしており、偶然ミレーユと出会い、Noirを結成したにすぎない。戦闘能力は突出しているものの、行動理念、思想が欠落している。霧香は「自分に纏わる物語」が存在しないのだ。

 

・中盤 ~クロエの出現、真のNoir、ミレイユの動揺~

 クロエなる少女が出現する。彼女はミレイユと霧香に、自分と霧香こそが真のNoirだと告げる。暗殺業を重ねるにつれ、ミレイユは自分と霧香、クロエの間に明白な戦闘能力の格差を実感する。クロエの言葉も相まって、ミレイユは自己に対する信頼が揺らいでいく。自分はNoirとは異なるのではないか…と。さらに、話が進展するにつれ、ソルダに関する文献からNoirは2人1組の存在だと判明する。また、ミレイユの家族もソルダの一員であることが発覚する。Noirはソルダに属するのだ。家族を殺したソルダという組織にNoirは属している。こうなるとミレイユは何を信じればいいのか全くわからない。対して、霧香はミレイユと暗殺業を営むうちに、ある種の充実感を得る。それは「Noir」に所属し、目的がハッキリとした生活を送っているからである。ミレイユと過ごした時間は彼女の中でかけがえの無いものとなっていったのだ。

 

・終盤 ~霧香の覚醒、そして……~

 紆余曲折あり、霧香は記憶を覚醒する。ミレイユを殺したのは他ならぬ霧香であったのだ。ミレイユは真実を知ったものの、情にほだされ霧香を殺せない。ミレイユと霧香は離別する。ミレイユと別れた霧香は足の赴くままに進む。途中、ソルダの集落での戦闘から、霧香は「夕叢 霧香」としての人格から、「真のNoir」としての人格にスイッチングする。霧香は歩き続け、終着点である荘園へ辿り着く。荘園にはクロエと、アルテナが住んでいる。アルテナはソルダの最高幹部の一員である。ソルダは組織ではあるが、一枚岩ではない。アルテナの考えは真のNoirになるための儀式を終えること。ソルダはNoirへ暗殺業を依頼し、かつやられ役も派遣する。全ては真のNoirになるための試練であり、ソルダの自作自演であったのだ。一方、ミレイユも別のソルダ幹部の口車に敢えて乗り、全ての決着をつけるため荘園へ行く。クロエ、霧香、ミレイユ。クロエの死。そして霧香とミレイユは荘園の神殿(?)、その最深部へ行き、ついにアルテナに出会う。アルテナは火の穴に落ち、2人は生還する。彼女たちはソルダの支配構造から逃れ、駆け落ちする。

 

 あらすじは大体こんな感じ(終盤飽きた)なんだけど、ミレイユの心情描写は序盤から非常に良く表現されており、霧香の描写も中盤からグイグイ良くなっていったのが印象的だった。何はともあれ、ミレイユ・ブーケが非常に可愛い。僕のタイプだ。赤の肩出しタートルネックに黒いスカート、最高。文学の造詣が深い、最高。しかし、戦闘ではいまいち活躍できず、ピンチの場面を霧香に助けてもらっている、最高。でもドヤ顔は欠かさない、最高。うーん非常に魅力的な女性だとしか言い様がない。正直序盤は結構退屈だったので、ミレイユの可愛さが大きな視聴のモチベーションだった。梶浦由記によりBGMはトリッキーな楽曲が多く、たまにハッとするものの、良いスパイスになっており、シメる所は丁寧にシメている。OPはALI PROJECT、EDは新居昭乃。両方とも作品の雰囲気に合致しており、高品質である。良いアニメだった。

 

 

 

 

映画『Stand by Me』感想(ネタバレあり)

2014年洋画見まくる計画を実行する。まず手始めに映画『Stand by Me』を観た。

 

アメリカ文化について:僕は今まで洋画をほとんど見たことがないからアメリカの文化については殆どわからないが、12歳の子供が煙草を吸ったり下劣な言葉を吐いたり、エース率いる不良グループが郵便箱をバットで殴ったり度胸比べをしているシーンを見て、アメリカ人の自由さに憧れを持たざるを得なかった。現代ではDQNとなじられても仕方のない行為ばかりだが、彼らはそういう悪行を通じて交友を育んでいるのだ。僕も悪友がほしいが、高度に理性的に生きなければならない。この世は生きにくい。

キャラクターの性格について:主人公、ゴードンの家庭は兄の死後、冷えきったものとなっており、両親の彼に対する風当たりは厳しかった。彼の居場所は家族ではなくクリス、テディ、バーンらの友達だけだった。彼らは進学組のゴードンとは異なり家柄、素行は悪いが、ゴードンはそんな彼らとの日々を本当に大切にしていた。家庭、学校、町…小さな世界に格納され日常を生きるゴードンはやりきれない想いを募らせた。そんな中で、バーンは死体を見つけたという報告をする。兄の死後、ゴードンは「死」という非日常、彼岸に対して並々ならぬ感情を抱いていた。また、死体を探しに線路を渡るというのはゴードンにとっては束の間の非日常体験だったのだろう。彼は死体探しに並々ならぬ熱意を抱いていた。それは、非日常への欲求を根源としていたのだろう。…うっかりゴードンのことについて色々書いてしまった。クリスは本当に聡明で良い奴だ、テディはどうしようもない悪ガキだが父親と軍隊に対する愛は半端じゃない、バーンは女々しさ全開だが、結局ゴードンらと一緒になってつるんでいる。彼ら4人のコミュニティは本当に子供特有の繊細でウェットな友情で形成されており、素晴らしい。

テーマについて:キャラクターの項で色々書いたが日常と非日常、子供時代、そして人生の一回性、此岸と彼岸であろう。大人に成長し作家となったゴードンがこの物語を書いたという形で締めくくられる構成も上手い。

2013/12/31 来年の抱負

・趣味の身体性を重視する

 漫画、小説、ゲーム、音楽、映画…どれが最も自分の身体と合うのか未だにわからない。また、消費的趣味に限らず、生産的趣味に関しても、ある程度継続することで、身体はその趣味を楽しめるようにmodifyされる。そして、消費的趣味に関しては、駄作、凡作を鑑賞するよりも、世に言われている「名作」を鑑賞するほうが、modifyの度合いが大きい。だから、名作を鑑賞することは価値がある。僕は自慢ではないが映画をめったに見ない。おそらく、これまでの人生で30本も見ていない。だから、来年は映画をいろいろ見て楽しみ、かつ楽しめるように身体をmodifyできたらいいなぁと思う(まぁ、合わなかったら仕方ないけれど)。

 

・他者を介在しないで自己肯定感を得る

Twitterというツールは他者を介在とした承認を得るのに非常に便利なツールだ。いや、便利すぎた。僕はTwitterを使うにつれて自己完結する形で自己肯定感を得ることがほとんどなくなった。Twitterというツールを通して自己が改変され、コミュニティに所属することで他者から承認され、自己肯定感を得ることで満足するよう、身体がmodifyされていった。来年はTwitterを見る時間を極力減らし、趣味を楽しんで感性を磨き、自己完結する形で自己肯定感を得たい。

 

・恋人をつくる

カップルというのはコミュニティの最小単位である。恋人をつくることで他者から承認されて自己肯定感を味わう体験を十二分に味わいたい。絶対に楽しいと僕は信じている。

 

(来年はもっと自意識を排除した文章を書けるようになりたい)